1.黒い訪問者1.黒い訪問者
後にわたしの片腕となるタークス・レノ。
彼は服役中のコードネームを"ローズ" 服役後は"バード"と呼ばれた。
一時の感情に任せた色の記憶を、彼は刺青に刻んでいる。
断片を繋ぎ合わせた青春の模様があの男のコードネームになった。
レノは誰もが予想した通り、凶暴なるその短い青春は牢獄が封じた。
25人を殺害した罪で投獄された彼に下された判決は"懲役680年"
死して尚、刑を受ける凶悪犯は当時まだ17歳の少年だった。
刑確定の翌日、わたしは少年レノを引き取った。
周囲の猛反対を強引に押し切り、彼を欲したのはこのわたしだったからだ。
「主任。そろそろ時間ですが」
部屋に入ってきた部下が壁掛けの時計を指す。
広げた新聞を二つに折り、わたしは自分の腕時計に目をやった。
午後1時。
午前の仕事が詰まったせいで予定が大幅に狂っていた。
ここからゴールドソーサーエリア『コレルプリズン』まで、ヘリで行っても片道だけで1日が終わる距離だ。
だが今日中に何とかレノの引取りを完了したかった。
「最速ヘリで行くか」
プラスチックの容器の底に残ったコーヒーを、少しためらってから飲み干す。
「しかし主任、それでは我々が同行できません」
「わたし一人で十分だ」
「大丈夫ですか」
「仕方ない。なんせ2人しか乗れないんだからな」
カップをゴミ箱に放り上着を掴んで立ち上がる。が、突然の吐き気に思わず口を押さえた。
胸焼けする胃をさすり、飲まなければよかったと後悔した。
定期的に出ては引っ込むこの持病。
一時は影を潜めていた潰瘍が、最近頻繁に疼くようになった。
ほとんど薬で埋まった一番上の引出しを開けると、絶妙なタイミングでルードが水をコップに入れて運んでくる。
「…………」(また始まったのかい)
「ああ。コーヒーを飲みすぎた」
「…………」(ブスコバンはやめた方がいいぜ。癖になっちまう)
「そうか。じゃガスターにしておこう」
「…………」(ガスターだって同じだ。それにそいつは切らしてる。昨日自分でそう云ってたじゃねぇか)
「自分で云った事を完璧に忘れてるな」
胸焼けは胃痛に変わる。
刺し込むような痛みに耐えがたいストレスを感じ、再び椅子に座って引出しを探る。
だが頭痛薬、頭痛薬、頭痛薬。出てくるのは頭痛薬ばかり、奥を探るが胃腸薬は見つからなかった。
「…………」(確か1袋くらいなら俺が…)
コンドームを指でつまんだルードが慌てて飛び上がっている。
数珠繋ぎで出てきた避妊具を必死にポケットに押し込むルードを、回りの部下が困ったように見ていた。
「ルード。そろそろ出かける。後は留守番を頼む」
ルードの背中に目を反らし、水だけを喉に流し込む。
「………」(そ、そっか)
「明日には帰る」
「………?」(トンボ帰りか。現地で一泊して来ないのか?)
「時間が無い。仕事が詰まってる」
「…………」(無理するなよ。何かやっておく事は無ぇか)
「代わりに寝てくれ」
袖を通しながら部屋を出た。
多分最後の言葉はルードには聞こえなかっただろう。
今夜寝なかったら2日の完徹になる。
今自信があるのは居眠り運転だ。
「………!」(ツォン、忘れ物だぜ)
追いかけてきたルードからスーツケースを受け取る。
「主任!財布忘れてますよ」
部下から机の上に置き忘れた札入れを受け取る。
「これ主任の携帯ですよね」
一緒に携帯を受け取る。
エレベーターを待つ間、再びルードが走ってきた。
手首にガチャリと手錠をかけられた瞬間、大事な忘れ物に青ざめた。
「………」(忘れたら最悪な無駄足だぜ)
手錠から下がるファイルケースの取っ手を握る。
「後は忘れ物は無かったか」
「……」(これで最後だ)
最後にヘリのキーケースを受け取った。
溜息の度に胃が痛む。
ゴールドソーサーエリア内、コレルプリズン。
砂漠の中に建てられた流刑の地に、目的のレノは収容されている。
北側の鋼鉄の塔、そこに死刑囚たちが残りわずかの人生を過ごす牢獄がある。
レノは終身刑、死刑囚たちと同じ塔にいた。
ここに居る死刑囚たちは、長いもので1ヶ月、短い者で1週間。
限られた命を消化する事に関しては、彼らは我々と同じ。
強制的に閉じられる人生の終わりの日を知っているだけで、特別ではない。
我々はその記念日を知る事が出来ない、知れば我々も死刑囚と同じだ。
「え…と、サイトウさんでしたか?」
「スズキです」
「所長とのアポイントはお済みでした?」
「こちらへの到着時間は今日の午後に連絡をしてあります。お会いする事に関してはそれ以前にお話しております」
「少々お待ちください」
ヘリポートを降り立つと、銃を構えた数人の看守が出迎えた。
数メートルも歩かないうちに入れ替わり立ち代り、来た目的を尋ねる職員がわたしの足を止めた。
同じセリフを何度云ったことだろう。厳重な警備の割に内部連絡がまるで手薄だ。
所長室に通されたのはそれから1時間後、しかも所長はとっくに帰宅して不在だった。
やっかいな事に、代理の副所長は今回の最高機密をまったく知らない。
死刑囚引渡しという前代未聞の出来事に、困惑と疑惑の抗議を繰り返す。
「あなたが聞いてる聞いてないの話など、こちらとしてはどうでもよいことなのです」
一方的に拒絶の理由をまくしたてる副所長にやっと口を挟む。
キー付きのファイルケースを見せ、さらに手首と繋がっている手錠を見せた。
たった1枚の書類のために拘束された手首に、事の重大さをやっと察知した副所長の顔色が変わる。
「所長に至急ご連絡をお願いします」
「しかし所長は今夜は大事な結婚記念日でしてね」
「ご心配無く。"ローズ"の契約書とおっしゃればすぐに飛んで来ます。すぐにこちらに戻られ、書類にサインするようにと」
「お言葉ですが、我々に対し一切の身分を明かさないあなたに、その権利がおありかどうかお尋ねしたい」
「それほどわたしの身分がお知りになりたいのならお教えいたしましょう」
「当然です。名刺をいただけますかな」
「名刺ですか。わたしは滅多に名刺はお渡ししないのですが」
「…?」
「何故かおわかりですか。副所長」
「……いや」
懐に手を差し入れ、ホルスターを探る。
染み付いた癖は常に拳銃のありかを確かめていた。
上着の内ポケットから名刺入れを引き出し、副所長がよく見える位置に置いた。
表面の黒皮に金箔のロゴが押してある。神羅と。
「神羅カンパニー?あの会社の方でしたか」
「ただしわたしは普通の会社員ではありません」
「と、いいますと」
「わたしの名刺をお渡しすれば、半永久的にあなたに公私共に監視の目がつきまとう事になります。非常に不便な思いをこの先する事になりますが、それでもよければどうぞ」
悩む事無く彼は名刺を手に取った。脱走不可能と世界に名だたる、コレルプリズン副所長のプライドなのか。
この先かかる監視の目より、任務の名の元の好奇心を彼は選んだ。
「神羅エレクトリックカンパニー総務部調査課主任……そうですかスズキというのは偽名でしたか、ジョンさん」
「ツォンです。それと、くれぐれもこの名刺を外部に出さぬよう。他人に見せるのもご法度です」
「何故です」
「特殊チップが埋め込まれています。接触したあなたの指紋は登録されました。これが第三者に渡ったら、あなたの周囲はさぞかし慌しくなるでしょう」
「それはあまりにもチョンさん」
「ツォンです」
むっとして名刺入れを懐にしまいこんだ。
代わりにファイルケースから書類を取り出す。
「さらにこの件が漏れるような事があれば、ご自身のお命を真っ先にご心配ください」
数秒間顔をこわばらせた後、副所長は大きな溜め息で判りましたと答えた。
「ではこちらをどうぞ」
わたしが広げた書類に、副所長は身を乗り出して覗き込んだ。
先に行末に記されたサインを指先で示し、なぞりながら彼にその名を読ませた。
コレルエリア大統領及びプレジデント神羅
極秘書類にサインされた二人の名に、彼の生唾を飲み込む音が聞こえた。
【囚人NO.843680の身柄を神羅エレクトリックカンパニーに引き渡すものとする】
【ただし囚人本人の情報、人格はコレルプリズンの監視下の元、エリアで決められた法律に則り管理されるものとする】
「一体これは?わしには何を意味しているのかさっぱりわからん。えーーと、Mr.チョン」
「ツォンですよ」
「あ。ツォンさん」
「何でしょうか」
「別に呼んだわけでは」
「用が無いのに意味も無くお呼びになったのですか」
「いや…その…えっと……あり?わしは今何を言おうと思ったんでしたっけ?」
「知りませんよ」
忘れていたタバコを一本引き抜く。 いつの間にか胃痛もおさまっていた。
呼び出しを喰らったコレルプリズン所長は、怒りに荒れ狂う妻を置き去りに、すぐに戻ると伝えてきた。
自家用ヘリで30分。
一世一代の重大な約束を忘れた所長の声は、別人のように狼狽し裏返っていた。
更け行く夜の砂漠を窓に眺め、悪戯に過ぎる時間のロスを悔やみ煙を吐く。
「誠に申し訳ありません。あの…コーヒーをお持ちしますか?」
「遠慮しておきます」
「軽いお食事はどうでしょう?チョンさん」
深く吸い込んだ煙が空腹を知らせていた。
考えたらほとんど丸一日何も食べていない。
「ツォンですよ」
投げやりな口調で窓に目を向ける。
空腹より寝不足が辛かった。
この時わたしが持参した書類は、いってしまえば囚人売買の契約書だ。
神羅は裏金として大統領個人に賄賂を渡し、レノ引き取りの承諾をもらった。
1000万ギル。あまりに軽いレノの命の値段だ。
この事により、人格と生身が完全に切り離された二人の人間が出来た。
書類上にのみ存在する無期懲役囚レノと、神羅に雇用される実体のレノ、一人の人間が二人存在するのだ。
だがレノの実体に人格は無い。彼の人格は、懲役680年の刑が終るまで戻っては来ない。
「おい、腐れチンピラ。起きろ」
屈強な看守の声に、ギラついた目だけがこちらに向いた。
「さっさと汚ねぇツラを向けやがれ狂犬」
看守が警棒で扉を叩き大きな音を出した。
レノは廊下から入る光がまぶしいのか、ふてくされてるのか、壁側に顔を背け返事もしない。
だが遠目でもレノの顔はすぐに判別できた。
わたしはレノに会うのはこれが初めてではない、2度目だった。
だからこそわたしはこの刑務所を訪れ、こうして彼の前に立っている。
レノが収容されていたのは罰則用の独房だった。
判決が下りた日、看守二人に殴りかかり大暴れしたという。
「すいませんね。どうにもこうにもふざけた野郎で」
廊下で待つわたしに、塔の責任者が説明する。
「看守の一人は首の骨を折って重症です。キレたら何をするか油断出来ない危険分子です。相手が武器を携帯してようと平気で素手で向かってくる…ったく襲われた看守も看守ですが、完璧にあの男はイカれてますよ」
「暴れた原因は何ですか」
「奴の両親が面会に来まして、帰った直後に暴れ出したんですよ」
「親に暴力は?」
「いいえ。その時はおとなしいもんだったらしいです」
拘束衣で両腕をがんじがらめにされ、レノが二人の看守に引きずられて独房から出てきた。
わたしの顔を見るや否や、床に血の塊を吐き飛ばした。
靴のすぐ先で、レノの髪の色のような鮮明な朱の液体が固まった。
「どこか個室を案内してもらえますか」
「では、こちらをお使いください」
薄暗い廊下を責任者の後をついて歩いた。
背後から看守に罵倒されながらずるずると引きずられるレノがそれに続く。 レノは終始無言だった。
用意してもらった別室は防音設備が完備された大きな部屋だった。
クッションの効いた壁材は、防音ともう1つの役目をしている。
すなわち暴行を受ける囚人たちの頭を、壁に打ち付けて死なす事の無いよう配慮されたものだ。
床は抗菌、傷のつきにくい加工金属。さらに部屋をぐるりと側溝が囲み、水で流せば血の痕跡も残らない。
泣こうが喚こうが一切の音が遮断される、要するにここは体罰を加えるための拷問部屋だ。
「あとは彼と二人きりに」
「いや、それは危険です。さっきお話したように…」
「ご心配無く。話が終わったらお呼びします」
「しかし…」
「なにぶん内密なもので。ご理解とご協力をお願いします」
頭を下げる看守の脇を通り中へ入った。
鍵は外側からロックされ、わたしは希望通りレノと二人きりになった。
固いステンレスのテーブルと椅子が2脚ある。
部屋の中へ勢いよく突き飛ばされたレノは、床に転がった後、そのままの姿勢で仰向けに足を投げ出していた。
わたしは構わずレノの個人データをモバイルから呼び出し目を通した。
年は17歳、出身はアンダージュノン。
孤児院を転々とした後、今の養父母に引き取られた。
在籍した学校のデータは無い。あるのは窃盗、暴力で占められた過去の犯罪データだけだ。
最初の殺しは15歳。不良同士の喧嘩がエスカレートし、二人殺している。
収容された先で服役中の少年3人を殺害、これも喧嘩が原因。
残り20人の殺害に関しては、5人がやはり喧嘩による殺害で相手は街のチンピラ、残りは金で請け負った殺しだった。
殺意無き殺しと、金で買った殺意。 それがレノの殺しの全て。
【だがレノ。迷う必要は無い】
わたしの漏らした独り言を、レノが聞いていたとは意識していなかった。
「起きろ。これからお前を娑婆に出すための契約を交わしてもらう」
娑婆という言葉に反応し、レノがこちらに顔を向けた。
「んなモン聞いてねぇぞっと。俺の知らねェとこで勝手に…」
「すでにお前の運命は決まっている。イエスかノーか迷う必要は無い。迷いという言葉はお前に残されていない」
胡散臭そうな目でわたしを睨むレノの、顔にこびりついた血の染みを眺めた。
部屋を照らす青白い照明は、赤い血を青く見せる。
血に興奮する看守たちを抑制するつもりか、それとも血を流す相手を人間と思わせないためか。
少なくとも床に大の字に転がるレノは人間に見えたし、わたしは血に飢えてはいない。
青い照明は目が痛いだけだった。
「何ジロジロ見てんだよっと」
「起きろと云ったのだ。さっさと起きてこっちへ来い」
「何モンだよテメェ!えらそうに命令するんじゃねぇぞっと」
「これを読んでサインしたら、わたしの正体を明かす」
「何が正体だよっと。てめぇは月光仮面かよっとこのマヌケ野郎っと」
レノの奇妙な口調に吹きだしそうになった。
笑いを噛み殺し、懐から4つ折りにした書類を出しテーブルに広げる。
紙面は天井のライトを受けて蛍光色に輝き、複写不能の特別紙にうっすらと青くturksと透かしが浮かんだ。
自分の身体を抱きしめる形で固定された拘束衣。
レノは身体をバウンドさせて立ち上がり、ひょこひょこと近寄ってきた。
「後ろを向け。金具を外してやる」
留め金を外してやると、レノは忌々しげに拘束衣を床に叩き付けた。
その下に着ている配給されたTシャツは、最後にいつ着替えたものなのか、血とも汗ともつかないシミが背中や胸にこびりつき、さらに片方の袖が腕の根元からちぎれ落ちていた。
「いつシャワーを浴びた」
「………」
「着ているもののせいか」
悪臭に眉をひそめたわたしに、レノはバツの悪そうな顔で髪を指でむしり掻いた。
「ひどい匂いだ。脱げ。全部だ」
「るせぇなっと!俺の匂いにガタガタ云うんじゃねぇぞっとッ」
「そこのスーツケースを開けてみろ。着替えが入っている」
「………」
「全て真新しいものを用意している。お前もそんなものを着ていては気分が悪いだろう。着替えろ。それまで待ってやる」
自分でも気分が悪かったのか、レノは素直にトランクから衣類を引っ張り出して黙々と着替え始めた。
服を全部脱ぎ捨て平気で全裸になったレノを観察する。
わたしの関心はその均整の取れた肉体だった。
以前に見た彼の激しいストリートファイトの強さの要因を知りたかった。
あの時、わたしの目を釘付けにした街の若者たちの小競り合い。
若者たちの輪の中にレノが居た。
「………?」(そんなに野郎どもの喧嘩が気に入ったのかい?)
いつまでも少年たちの喧嘩を見つめるわたしに、ルードが呆れて云った。
会社へ戻る帰り道、深夜の5番街スラムだった。
ルードに車を路肩に止めさせ、わたしは彼らの喧嘩を助手席から眺めていた。
レノ一人に十数人の少年が群れていた。
「どう思う、ルード」
「………」(何がだい)
「あの赤毛の男だ。腕っぷしが強いだけじゃない、あの動きはプロ並だな」
わたしに促され、ルードは気乗りしない顔で彼らの喧嘩に目を向けた。
「………」(あいつか…)
「知ってるのか」
「………」(まあな。あのガキはちょいと有名だからな)
サングラスを外し、ルードは黒い表面を丹念に磨いていた。
男を確認するように細めた目は、険しいほど真剣だ。
「………」(狂犬レノだ)
「狂犬?」
苦笑するわたしにつられ、ルードもニヤリと笑う。
「…………」(ガキの分際でヒットマンまがいのヤバい仕事に手を染めてるらしい。所詮裏街道の連中にいいように使われてるだけだがな。はした金でよ)
「どこかの組織に属してるのか」
「…………」(詳しくは知らねェが、多分はぐれ者だ。あまし…って云った方が早ェかもな)
発砲の音は一度も聞こえない、誰も銃を所持していないのだろう。
振り回される鉄パイプと、手に持ったナイフの光が暗闇で激しく争っていた。
狂犬レノ
街の嫌われ者、チンピラにも裏組織にもそっぽを向かれる半端者。
だがその強さは半端ではなかった。
喧嘩慣れはしてるのだろうが、体力と機敏さは超人的だ。
生まれつき恵まれた肉体を授かっている、それに加えて格闘のセンスは天性と確信した。
「彼の身元を詳しく洗ってくれ。あとは監視ターゲットにレノのニューファイルを追加だ」
「………」(それはいいがツォン。どの道奴は長くねぇ。しょっ引かれるのも時間の問題だぜ)
「構わん。どこにぶち込まれようと追跡する」
「………」(奴がぶち込まれるとなったら、下手すりゃ出てくるまでに世紀が変わっちまうぜ。待てるのか?ツォン)
「待たないさ」
「…?」
「周囲が思うほど、わたしは気長な性格では無い。その前に手を打つ。痺れを切らしてな」
裏工作部隊タークスに求められる肉体は…と聞かれれば、視力、さらにそれ以上の動体視力。
数え上げればキリが無い人並み以上の運動神経、特にすばやい肉体反応と獣並みの体力、足の速さ。
今こうして見るレノの肉体の特徴は、足の筋肉の見事さだ。相当速いだろう。
腕で目を引いたのは手首へと繋がる筋肉の流れだ。
腕力よりも手首のスナップ、そのバネと強さは拳銃を扱うのに向いている。
突然の変化と状況に機敏に立ち回れる若い瞬発力、それを満たす可能性がこの肉体にあった。
冷静沈着、不動のルードの片腕を持つわたしに、あとは俊敏な機動力の片腕が手に入れば
『ザ・サード』 それはタークス三番目の影となる。
だが、予想もしなかった落胆が次の瞬間訪れた。
「なんとか会社なんとかえれくとりっくかんぱにー…を、えっと…ニシタ…でこれはなんだ?この字はこうしえんのこうっていう字に似てるぞっと。ここになんとか名されたるドイツ人ををこ…とする…ん?こって何だよっと」
株式会社 神羅エレクトリックカンパニー以下甲とし、ここに署名されたる個人を乙とする。
(嘘だろ…)
凍りついたわたしをよそに、レノが書類に鼻をつけて読み上げる。
「いち。こをなんとかえれくとりっくかんぱにー… なんだ?卓球部かなっと」
「…………総務部調査課の事か」
「そー むぶちょー さかが何だよっと。む部長って何だよっと。む部長が坂からどうしたんだよっと。転げ落ちたのかよっと」
「………」
「わあっと○がいっぱいあるぞっと!きっと俺の給料だぞっと。いちじゅう…ひゃく…せん…次はなんだっけ?おくかなっと」
「それは電話番号だ」
文盲以前の問題だった。
レノは契約書に記されている漢字をほとんど読めない上に、言葉の意味すらも理解できなかったのだ。
契約書を取り上げ口頭で読み終えたわたしに、レノはほとんど何を言ってるのか理解不能という顔をしていた。
総務部調査課という意味を知らぬレノが、真新しいタークスの制服に身を包んでいる。
絞めた事が無いのかネクタイは尻のポケットに突っ込み、ワイシャツはだらしなくズボンの上にボタンも留めずに出していた。
「ダセぇスーツだぞっと。テメェみたいに気取ったリーマンのクソの匂いがうつりそうだぞっと」
「内容はわかったか」
「要するによっと。ここから出してくれるかわりに俺をこきつかうって事なんだろっと」
「理解が早いな。思ったほど頭は悪くないようだ」
「うるせぇクソ野郎!テメェは信用できねぇんだよっと。だいたいあのヤクザ会社の神羅が俺をつかってどうしようってんだよっと。何かんがえてるかわからねぇ掃溜めのクソ会社だぞっと」
舌打ちしながら上着の袖をまくり、レノが気だるそうに壁にもたれて睨みつけている。
「質問はあるか」
「知るかよっと」
「では、ここにサインをしろ」
ひったくるように奪ったペンで名前を殴り書く。
RENO と。
「勝手にやってくれだぞっと。俺には関係ないからなっと」
放り投げたペンが壁に当たって床を転がる。
偽りの人間として生きる意味をお前は理解していない。
お前が下された無期懲役680年、それよりも過酷な刑をこの瞬間に受ける意味を。
ガッ
狙ったのは右の顎だった。
突然の衝撃にレノは声も無く、無防備な身体はわたしが放った拳にあっけなく吹っ飛んだ。
関節を鳴らし、手首を返す。
「何しやがるッ!!このクソ野郎っとッ!!」
ペンを拾い上げたわたしにやっとレノの怒号が口火を切った。
殴りかかる腕は掴むのにちょうどよかった。
勢いよく突進した身体は背中でひねった手首で動きを封じ、そのまま強引に椅子に座らせた。
腕の付け根に走る激痛に、レノが悲鳴をあげて手のひらを開く。
「チキショウ放せェッ!!ぶっ殺されたいのかよッと!!」
「スペルが違う。RではないLだ」
拾ったペンをその手に握らせ、書類の上に叩き付けた。
「書き直せ」
「放せって云ってるんだぞっと野郎ッ!!」
蹴り上げた足をよけ、背中で腕をひねり挙げる。
暴れもがく頭は髪の毛を掴んでテーブルに叩き付け、ペンを握る手だけを残した。
「早く書け。お前と遊んでる時間は無い」
「ワァァァッ!!イッ…痛ェって!!やめろよっと!!」
関節の外れる限界まで背中で腕を痛めつけた。
怒鳴りまくる声が女のような悲鳴に変わるまで、容赦するつもりは毛頭無かった。
だがレノは呻き声1つ出さず、久々に、いやかつてない屈辱に耐えている。
苦しさに逃れた顔から血がテーブルに流れ、書類にシミを作った。
これはお前が自ら交わす血の契約書だ。
目を反らさず自分の手で名を綴れ。
「名前を間違えるなレノ。名を書くことはお前の意思だからだ」
「イテェ……」
「わかったら"はい"と答えろ。わからぬならこのまま腕が抜けるまで黙っているがいい。自由だ」
「……を放せよっと」
「聞こえないな」
「手を放せって云ってるんだよッと!聞こえねェのかファック野郎ッっと!」
「聞こえないと云っている」
「ワァァッ!!」
外れた腕の関節にレノが絶叫をあげた。
鷲づかみにした髪で、崩れた体を引きずり上げる。
バタバタと蹴り上げる足の甲を靴の底で踏み潰し、髪を掴んだまま再度頭をテーブルに押し付けた。
ペンを握り締めた手を再び契約書の上に置き、わたしはレノがサインするのを辛抱強く待った。
だがレノは頑としていう事を聞こうとしない。指一本動かさなかった。
「署名しろ」
「…しょめーってなんだよっと…しょーもねーおめーのオンナのあそこかよっと」
精一杯強がりレノが声をたてて笑った。
「再度云う。今のお前には迷いも許されなければ選択肢も無い」
「…………」
「わかったらさっさと署名しろ。二度と名前は間違えるな」
首根っこを押さえ頭を数度揺する。指で押さえた個所は急所だ。
飛び出す咳でテーブルに突っ伏した背中が痙攣していた。
観念したように押し付けた顔からわずかに声が漏れる。
「……おい」
レノが咳き込みながら云った。
「書いたら……お前の正体をおしえてくれるって云ったよなっと」
「そうだ」
「けど、これでどうやって書けっていうんだよっと」
わたしはレノを苦しめた手を解放した。
抜けた腕をダラリと下げ、もう片手が歪み震える線で自分の名を綴る。
LENO
テーブルの上を転がったペンが床に落ちる。
レノの手は死んだように書類の上で力を失っていた。
「自分の名前のつづりなんか知らねぇよ… 今はじめて知ったんだ…なのに…」
不毛だ――…
無知が為しえる不毛なる暴力。 この男との間に全ての暴力は言葉を失う。
自分の暴力に嫌悪を感じた。
否定し続けていた感情が露呈した忘れられない一瞬だった。
「お前の名前を教えてくれよっと」
ゆっくりとわたしに振り向いた顔。
頬に走る顔の傷、その上に大きく鋭い両目がある。
路地裏にゴロゴロと転がる、若く乾いた植物のような眼光だ。
数え切れない若者のこんな目を見てきたが、この男の目は違う。
「わたしの名はツォン。今のお前と同様、姓を無くした男だ。後にも先にも続く命は無い」
追い詰められた獣の目は死の予感に静止し、追い詰める獣は切迫した生に狂気する。
それがこの瞬間のお前だ。
「今日からお前の名はタークス・レノ。それがお前の運命だ」
こちらタークス コードネーム"Z"
バード奪回、任務完了 これよりコレルを発ちミッドガルへと帰還する